マニラ娘純情。Manila Photo Virgin. "好きですマニラ manila love..." White edition
幼き娘が、たらいで洗濯をしていました。


『壁や窓の気密性が低くて、エアコンでは意味がない。』
『エアコンの電気代が負担できない。』

これらの理由で、扇風機を使っている家庭が、フィリピンには結構あるのです。

それでも、寝ている時に扇風機をかければ予想外に体温を下げて、体調を狂わせます。寝る時には使はないものです。

一日外んで遊んでいるか、食べているか、日陰で寝ている子供たち。
汗をかいて日に何度と着替えます。
かくして洗濯は、フィリピン家庭生活での必須業務。
子供たちも、富裕層の子供でもない限りは、自分で洗濯しています。




[拡大]



「可愛いですね」はじめて自分で砂場に行き、オシッコをする小犬のようでもあります。


それが日常ですから、苦痛の表情はありません。

着ていた衣服の汗や汚れを落とし、いい香りに乾燥した衣服は気持ちのいいものです。

昨日でしたか? 横浜の小中学校のトイレ掃除を、生徒がやることになったと?報道されていました。

「良いことですね」という以前に「えっ いつからしていなかったの?」です。

日本では子供たちから、貴重な経験や体験と興味心を剥ぐことを、随分と家庭でも学校でも社会でも多いことなのだと、想い知らされます。

まぁ〜 私からすれば、こんな子供の元気な姿や笑顔に逢えることも、渡航理由の一つ。市場に集まる群衆の中を闊歩するのと、同じ楽しみの一つです。

この数から来る民衆の力。日本では新年の参賀など限られた時にしか観られません。しかも子供を肩に乗せて、お父さんが歩く光景を見受けることは薄らいでいます。





フィリピンのローカルエリアで、娘達と一緒になって食事します。
日本人社会関連エリア以外に足を踏み入れない人からすると「何で不味いものを一緒に食べたがる」「そんな不愉快なことをして何が楽しいのか?」とお思いでしょう?

でも日本もつい40年くらい前までは、フィリピンの生活様式と同じで、家庭には扇風機も、洗濯機も、冷蔵庫もテレビも無かったのですから、私にとっては、子供の頃の日本を観ているようなもので、そこでささやかなものを皆と囲んで食べるのは、不愉快なことではないのです。

「フィリピンの不味い料理」と語る人の中には、私の友人のような『本当の素材の味を知り多験と味覚を持って、時に自分で調理して食べてもらう喜びを知っている』人だけでは無いことを知らされています。
「フィリピン料理が不味い」という人でも、日系料理店で、味を確かめることも無く、飲み食いする光景を目にするからです。


いつぞや、フィリピンの娘と日系レストランに行ったことがあります。
出て来たエビ天ぷらを食べて「不味い」と言い出したのです。
確かめてみると解凍、冷凍を繰り返したのか? ドリップが流れ出たあとか?味も風味も素っ気もないエビに衣をつけて、揚げたものだったのです。




この娘の味覚は正しかったのです。

当たり前ですが、フィリピンの日本料理店だから、イタリアンレストランだから、フランス・中華レストランだから「旨い」とは限らないのです。
そして「フィリピン料理が」といわれる程、特に『フィリピン料理』と定義できる独特な料理や調理法に、私は遭遇していません。


フィリピンで食べる料理の多くは、何風の料理法でも多くはフィリピンの素材を使っています。
数件の日本料理店が「毎日、日本から素材を取り寄せている」と言ってますが、マカティの『杉』でもない限り、良い物がどんどん売れて良い状態で提供できる店は少ないものです。

『鯵のさしみ』や『たたき』でも、地場の緩い身の同種の魚。
『アワビ』は『姫とこぶし』万事が万事おなじであります。

日系のレストランや大きな設えの○○料理店が旨くて、フィリピンの家庭でつくる料理が不味いと考えるのは、先入観念としてあったとしても、一般論として語りえたとしても、絶対でも大方でもないのです。
何故ならその立派な日系料理店の調理を行なっているのは、フィリピン人である場合がほとんどだからです。





まぁ〜 味覚や調理は経験学です。経験が乏しい人が美味いものを作れないことは、あるものです。それは学べば、教えれば変わることもあるでしょう?
お金が無くても素材の旨いまずいは、先の娘でも言い当てていますから、旨いものを知っていれば誰に遠慮することも無く、日本料飲店で「このエビ天ぷらはまずい」と言えるのです。

「美味いものは旨い」「不味いものはまずい」、裸の王様の衣服が見えるようにまで、大人になりすぎる必要は無く、水平な思考や味覚で良いのじゃないですかね。
「フィリピン人は野菜は食べない」と言われながら、スーパーには多量の野菜が並んでいます。売れもしないものが並ぶわけも無く。であります。
フィリピンで野菜は、お腹がふくれない割にカロリーの低い、高価な食べ物なのです。


そういう私も、未だ良い小麦粉や、ポテトスターチに巡り会っていません。
米も安くて旨く、しかも安定的な味のものにたどり着いていません。
そのために、暫くは、ホテルでのチヂミ、お好み焼きパーティーは続きそうでもあります。

日本の朝食の一汁一菜にメザシに納豆なんて、欧米から観れば随分不味い貧しい料理に見えてるはずです。
しかし日本でも、美味い米や天日干しメザシ、十勝産大豆でこさえた味噌豆腐納豆での朝食にありつける人は幾人いますこやら。

コンビニやファーストフーズで外食生活を続ける日本人。外食する人が金のある人で、弁当手持ちが貧しい人なのではありません。
貧しいとは、カネがなくて外食が出来ないことを指すのではなく、少ないお金で美味いものを作ってくれる人や自分が居ないのも、指す場合もあるのではないでしょうかね。

食事は、その食べ物の味だけでなく、その場の雰囲気。そこに集う人が楽しんでいることも、味だと考えますがいかがでしょうか?

独り寂しく食事をとりたくなく、日本語の聞こえる日系レストランに赴きます。
が結局は孤食です。どんなおいしい料理も独りだけで食べるのは、味気ないものです。
高級な料理を独り食べるより、安い質素な料理でも大勢で囲み、ワイワイニコニコ顔で食事をするのは楽しいものです。
これこそが、40年前の日本のどこの家庭にもあった食事風景と同じものなのです。






inserted by FC2 system